2015年10月29日木曜日

他者否定をしてしまうアルコール依存症者の子どもたちの切実




ネガティブな体験によって、人間関係の仕方をがネガティブなものになってしまうのは仕方がありません。

大人になってからならネガティブな体験を回避できたかも知れないし、自分の責任ではないと解釈の幅も広く取れるでしょう。なにより助けを求めたり相談することもできます。

しかし、幼い子どもにそれはできるでしょうか?子どもにとって親は生きる生命線なのです。
自分がなんとかしようと頑張って、どうにも出来ず無力感を感じて傷つきだけならまだしも、どうにも出来なかったことに恥ずかしさを一生外れない自分を縛る鎖のように感じてしまうのです。

このような子どもが社会に巣立ち、何かを求めても、自分の手に入るとは思えなく感じても無理ありません。

アルコール依存症者の子どもたちの切実な問題はこの先で起こります。欲しいものを手に入れるには、その対極にあるものを手に入れてしまう可能性があります。

例えば資格獲得のプロセスには、努力がありその先の対極に失敗があります。
サッカーでも、ラグビーでも、野球でも、柔道でも、同じで勝利の美酒の対極には悔し涙があります。白と黒という対極を結ぶ「努力」という一本の線があります。求める物の逆の物を手にする可能性があります。しかしその可能性を拒んでいたら、欲しいものは手に入りません。

しかし、自分の手に入るとは思えなく感じると、最初から努力を十分にしません。しない方が自分に対する言い訳ができるからです。「努力していたら勝てたはずだが、勝ったところで大したことがないので、本気になれず努力しなかった」というふうに、言い訳できます。

しかしこれで終わればまだマシな方で、自分を守るために、さらに決定的な理由をつけます。たかがこんなことに一生懸命になってるあいつらはバカだ。他に能力がないから、こんなことに夢中になれるんだ」というように軽蔑します。

好きな女性にアプローチしなければ、交際することはできません。しかし断れる可能性もあります。断られる恥ずかしさを恐れて、アプローチしないと、女性から自分にアプローチしてくれない限り、他の男性の彼女になる確率は100%になります。そこで「彼女も男を見る目がない」と好きなはずの女性を蔑視します。

常に「見せかけの自己肯定、他者否定(実際は自他否定)」が人間関係の仕方になります。これでは幸福な人間関係を築くことはできなくなります。

しかも実際には「いい人のときも悪い人のときもある自分」なのに、自分を受け入れてもらうために、いつも「自分はいい人」を世間に見せなければならないので、ストレスが高まります。いくら「自分はいい人」を演出しても、頭隠して尻尾隠せずになるので、自他否定の構えが出てしまい、思ったような結果は得られません。ますます「自分はいい人」を世間に見せようしますが、その努力が報われないので、やはり周囲の人を胸の中で蔑視します。

ストレスには良いストレスと悪いストレスがありますが、溜まるのは悪いストレスばかりです。
この宿命的な構造から抜け出すには。「絶対に手にしたくないものを積極的に受容してもいい」と開き直って自分を諦めるしかありません。そうすると求めるものが入りだします。

試合に負けたくないから出ないのではなく、負けることもある。仕方がないことと受け入れると勝つ可能性も出てきます。失恋してもいいから彼女にアプローチすると決めて行動すれば、彼女に愛される可能性も増えます。


そうすることで、体験から得たセルフイメージが変わって、人生のシナリオがポジティブなものに変わる可能性が出てきます。それを繰り返すことで、アルコール依存症者の子どもたちの切実な問題が変わります。

2015年10月20日火曜日

自己否定感こそ成長の糧



マネジメントの中核はPDCAにあると信じて疑いませんが、なかでも能力の不足を発見して補充することは重要な課題だと考えています。

アルコール依存症者の子どもたちには、共通した課題があります。

それは子どもにして親の役割をこなさなければならなかった悲劇から身につけてしまった、謂れなき罪悪感から生じた「自尊心の低さ」「自己否定感」です。

普通に考えれば分かることですが、7つや8歳の子どもに30歳の大人の役割ができるはずがありません。それでも彼らは頑張って、目の前の状況のすべてについて、変えようとしました。懸命に頑張っても、どうあがいてもできなかった結果、感じたのは、自分の無力感です。


しかし、成人したいま、この自尊心の低さ、自己否定感こそ、成長のチャンスなのです。
言い換えれば、「変化のネタの宝庫」なのです。それでなくても、子どもにして親の役割を続けた「ど根性」は大きな財産なのです。




ほんの少しだけ、ポジティブに考えてみましょう。

自己否定感、自尊心の低さは、チャンスであると同時に障壁になります。決して簡単だとは思いませんが、輝き支えている「ど根性」は乗り越える力になります。

自分を信頼してみましょう。そこから始まる物語では、ひっくり返された卓袱台をステップアップするジャンプ台に姿を変えます。


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2015年10月19日月曜日

アルコール依存症者の子どもたちが担っている役割




じなけれbば傷つくことはない
話さなければ誰にも分からない
信じなければ苦痛もなくうまくいく

これは親から教え込まれた3つの法律

  • 感じない
  • 話さない
  • 信じない


からは発展したルールです。このルールを守ることが安全に暮らす必須ですが、この安全が成人すると不幸を招き寄せます。

一般社会では、このようなルールを尊重する仕組みになっていないからです。
アルコール依存症者の子どもたちは、子どもの時からいくつかの役割を担って暮らしています。

  • 責任者
  • 順応者
  • 慰労係


責任者とは、一般の年齢では見られないほど、気を配り、親のような役割をこなします。親と子の関係が逆転しているような行為を平然とやってのけます、その上、子ども役割も近所、学校で見事にやってのけます。よく遊び、よく勉強するので、学校や近所でも「いい子」を印象づけてしまうので、この子が孤独に苦しんでいると気づかれることもありません。このため成人すると子ども時代がなかったような気になります。

順応者とは、アルコール依存症者の家庭で起こるドタバタで、なにが起こっても、気づいていないように静かに過ごせる能力を身につけます。その体験を繰り返すことで、どのような状態に置かれても平然として適合します。この能力のおかげで周囲から信頼されることも少なくありませんが、その理由は自分がなにも要求しないからです。

慰労係とは、慰め役であり、トラブルが起こっても因果関係を理解して、緊張した空気を和ませます。ここでも混乱を切り離して平常を用意します。これはアルコール依存症者が家庭内でひっくり返っていても、その横でなにもないように食事したり、就寝している日々で培われたものです。

彼らはこのような役を見事に果たすので、尊敬もされますが、自身の幸福は傍に追いやられ、忘れられています。


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2015年10月18日日曜日

感じない、話さない、信じないという法律




アルコール依存症という病気は当事者にとって孤独な病気ですが、それ以上に子どもには孤独、孤立の状態を生き延びなければならない寂しい世界だけでなく、沈黙のうちに全エネルギーを使う戦いです。

子どもが成長する時期にアルコール依存症という病気に全エネルギーを使うことは、成長に時間が使えずに生き延びなければならないのです。とても過酷な世界であることがお分かりいただけると思います。

生き延びるためにアルコール依存症者の子どもたちがすることは、
  • 感じない
  • 話さない
  • 信じない
ことです。これらは目の前で起こる現象を通して、法律のように教え込まれます。

目の前で、親がひっくり返っていても、「なにも変わったことは起こっていない」と言われると、自分の感じ方とのギャップに苦しみますが、まず、その言葉を受け入れて、自分の不安な感情を切り離します。さらに「誰かに言ってはダメよ」と注意されると「話さない」と決めます。その上で目の前で起こった現象を「信じない」と決めます。
  • 感じない
  • 話さない
  • 信じない
この三点セットをなにがなんだかわからない内に、自分の法律にしてしまったら自然な自分は失われます。それと引き換えに否応なしにコントロールする技術を学ばざるを得なくなり、なにより自分をコントロールするようになります。自分へのコントロールは「抑圧」という技術になります。
したがって、親をはじめ周囲からは「良い子」になります。この良い子というラベルの実態は自分の自然で瑞々しい知覚を自分から切り離すことでしかないのですが、そうしていると褒められるので、ますます「抑圧」という技術を磨いて成人していくことになります。

つまりアルコール依存症者の子どもが、無事に成人になったということは、孤独、孤立の状態をひとりで、誰にも助けを求めず、生き延びたということであり、今後も助けを求めずに生きて行くということなのです。

もう一方の親はどうしていたのだという疑問が浮かぶでしょうが、アルコール依存症者の親と決別していないとしたら、共謀者にならざるを得なく、

  • 感じない
  • 話さない
  • 信じない

の三点セットは、アルコール依存症者でない親の方から学ぶことになります。それゆえアルコール依存症という病気は子どもにとって孤独な病気になってしまうのです。




この孤独に手を差し伸べ救出することは、容易ではありませんが、深い愛情と献身と忍耐、そして時間を投入することで可能にもしますが、覚悟が必要です。

中途半端に関わることは、かえって傷つけてしまうことも少なくないからです。

でも、アルコール依存症者の子どもたち、すなわちアダルト・チルドレンと呼ばれる人たちには、とっても魅力的な人が多いのも事実です。その長所にスポットライトを当てて大切にしてあげてほしいものです。


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2015年10月17日土曜日

「すべてか無か」で測定する習慣を捨てられない



アルコール依存症者の子どもたちは、コントロールがどうしても必要であるように、「すべてか無か」の物差しを持って問題に近ずきます。本来最も親密な関係である親と親密な関係を体験できなかった子ども時代の体験から、親密な関係で適切な距離感が保てないため極端から極端の間をウロウロせざるを得ないのです。つまりすっかり信頼するか、全く信頼しないかです。

成人して社会人をしてバランスがとれた生活をしているにもかかわらず、この問題は理屈で理解できません、彼らは子ども時代に親から学んだことは、感情は即行動になるという習慣です。怒りの後には暴力を体験した呪縛が忘れられないからです。

健全な家庭では怒り、つまり感情が表現されても、思慮分別が次に来るので、感情がそのまま行動になることはないからです。つまり太いグレーゾーンがあるものですが、その空間がない状況で過ごしてきた「負の遺産」なのです。この問題は、とても大きな恐怖になります。

ついさっきまで笑いが飛び交っていた楽しい環境に身を置いていたかと思うと、怒りが表現された瞬間、暴力が自分または家族の一員に迫るとしたら、無防備になれる時はないのです。ですからそれを避けるためにコントロールを覚え、「すべてか無か」で待ち構える心情は理解していただけると思います。

グレーゾーンのない「すべてか無か」の体験は感情の混乱に発展させるだけでなく、マネジメントに欠かせない「マイルストーン」の概念を分かりにくくしてしまいます。


彼らはこの学びを、誰もがしているものと思い込んでいるので、それが当たり前だと思い込んでいます。なので人間関係とはそんなものだと思い込んでいるので、平穏な家庭環境にいると抑うつ気分になり、アドレナリンを求め、トラブルを求めるようになります。

親密な関係、重要な関係でなければ、なんとも思いませんが、これが親密な関係のなかで起こるので、アルコール依存症者の子どもたちの不幸に発展することも少なくないのです。アドレナリンなしに愛情を感じることができないのです。



2015年10月16日金曜日

アルコール依存症とアルコール飲酒量は関係ない



アルコール依存症というとへべれけに酔っている状態を想定しますが、量は関係ありません。普段は全く飲まず、たまに少量の飲酒で人格が変わってしまうのも「アルコール依存症」です。


ですから、実は「アルコール依存症」なのに気づかれない人もいます。逆にへべれけに酔っていても、普段と人格が変わらない人もいますが、この場合「アルコール依存症」には該当しません。楽しく飲む人に「アルコール依存症」はほとんどいません。

同じことは他の依存症にも言えます。たとえば結婚していて普段は何もありませんが、妻が実家に帰ったり、旅行に出かけたり、家を空けるとスイッチが入ってしまい、風俗に行ったり、浮気するというのも、「セックス依存症」の可能性があります。この場合も量ではなく、「妻がいない」状況になると頭がセックスで埋め尽くされてしまい、人格なり、行動が変わる、自律できないのが依存症なのです。

「アルコール依存症」がそうであるように、酩酊具合が問題の本質ではなく、人格が変わることが問題なのです。
昨日は膝に置き「おまえはいい子だね。かわいいね」と言ってるかと思うと、今日は「おまえは可愛くない。おまえのせいで我が家はドタバタ、忙しい」と言い出すように、めまぐるしく変わります。子どもは昨日と違う父親に慌て緊張します。

「いつ変わるか?」予測できない豹変ぶりに、子どもがエネルギーを使い果たします。子どもは毎日が恐怖です。祈るように過ごすかと思えば、無頓着に過ごせる。こんな日々の繰り返しは自分が大切に扱われる存在であることを忘れさせます。

人としての当然の人権さえ忘れさせてしまうのです。このような経験をして成人すると、DVを受けていてもそれを不当と思わず我慢し、たまに受ける穏やかな時間に安堵し「本当は良い人なんだ」とDVを受け入れてしまいます。

なにより穏やかな人柄に物足りなさを感じ、めまぐるしく人格の変わる相手を選ぶことで、子ども時代の習慣を受け継いでしまうのです。深海魚は深海でしか生きられないように。

このような不幸から脱皮するには、辛い因果関係をひとつずつ解いていく作業が必要です。それには我慢するのではなく、SOSのサインを出すことです。そうしないと負の連鎖はいつまでも続いてしまうからです。反面教師ということもありますが、深い愛情が注がれた場合に限られることを念頭に置いておきましょう。

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2015年10月15日木曜日

極端から極端を揺れ動く子どもたち















胸を鍛える運動をすれば胸が逞しくなる。
脚を鍛える運動をすれば脚が逞しくなる。
当たり前です。
同じように、アルコール依存症者の子どもたちには、共通した問題が起こります。

その際立った特長は三つあります。

・コントロールする
・信頼しない
・感情を抑え込む

自身の考えや感情の発露にもコントロールを行います。否認、抑圧がが日常的に行われます。
一方でコントロールができない場面では、過剰すぎる不安から用心深くなり、極度の恐怖感に苛まれます。どうすれば対処できるか懸命に探し回ります。

信頼しない点では、自他共に信頼しません。不信の原因ははっきりしています。
アルコール依存症者の子どもたちが、親から繰り返し言われ続けることは、明白な事実の無視の強制です。たとえばアルコール依存症者の父親が玄関で酔っ払って寝ていても、家族が否定します。これを繰り返されると、自分の解釈に自信がなくなっていきます。ここで葛藤が起こりますが、親の保護が必要な子どもは無条件に受け入れます。

こうして自分の解釈に鈍くなり、自分を信じられなくなってしまいます。成人して、だれの目にも明白なことであっても、すんなり受け入れることが困難になります。生きるための判断に同調するしかなくなるので、自身の瑞々しい感覚は鈍っていきます。

「感情を抑え込む」は、危機的な事態で、本当にしてほしいことを親に伝えたくても伝えられないために自分の感情を抑え込むことが当たり前になります。この経験から学ぶ悲劇は、「自分の欲求は他者の迷惑になる」という間違った気配りを当たり前にしてしまうことです。
裏返せば自分の願いを他者に伝えることは、自分の危険になる。という防御を強める考えに至ることです。

この三つはひとつになり、自分の欲求を満たしてくれる人に出会うと、依存的になり、それゆえに「悪い」と負担を感じてしまうことです。コントロールが過剰な用心深さから起こっているなら、依存は過剰な安心から申し訳なさ、つまり自己否定感を感じるのです。

このように極端から極端にぶれながら、常に自尊心を弱める構造から抜け出すことが困難な状況に住み続けてしまうようになります。



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2015年10月14日水曜日

危機的状態を生活の最大の目標にする人たち





アルコール依存症者の子どもが、体験する危機的な事態に慣れてくると、生活が安定した状態になると逆に落ち着きがなくなり、不安になるのは、想像にたやすいと思います。

これが原因で危機感がなく平和な状態が続くとストレスになることに気がつくには容易ではありません。

禁断症状から自ら危機を引きおこし、生き延びることに熱中してしまうのです。

生きている実感を味わうために人との関わりを求め、関わりの中で、危機を引き起こします。それは大抵の場合、自分にとって大切な人との間で起こします。大切でない人との間での問題行動は危機にならないからです。


この危機は、なんら将来に貢献しません。ただ毎日を生きるためのもので、行動は違っても性質は「アルコール依存症」と同じです。アルコール依存症者の苦悩は継承されるのです。

この最大の原因は、自分は価値ある存在だと思うことができないことにあります。
価値ある存在と大切にされなかった日々の体験が挫かれてしまったのです。

「おまえのためにこうなった」と言われ続けると無理のないことです。
それでも、アルコール依存症者の子どもたちは、生きるために愛を求め、求めるが故にしなくていいことに尽力してきたからです。約束を破られても平然とした顔で過ごすことに慣らしていったのです。

このために正当な権利を持つ感覚を失ってしまっているが故に、自分の気持ちに気づかない方法を身につけてしまっているのです。

そのために、自分自身を信頼できずに、「白か黒か」「すべてか無か」という極端な方法でしか見ない習慣が身についていて、それを求めるものに要求するため、親密になれる関係を破壊してしまうことを繰り返してしまうのです。

この厳しい問題を解決するには、「自分の気持ちに気づかない方法」つまり強固な壁を崩すことが欠かせませんが、生きるために築いた壁なので、不安に苛まれることになります。したがって自分が明確に「崩す」意識を持つことがとても重要になります。意識を持っても一進一退が続くからです。一刻も早い解決に向けてスタートを切ることが望ましいと言えます。

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2015年5月31日日曜日

「すべてか無か(白か黒か)」の機能とコントロールの関係







アルコール依存症者の子どもたちに共通する態度「すべてか無か(白か黒か)」の機能とコントロールの関係についてお話しましょう。


  • 何もできなかったと考える。
  • 何もかもがすべて正しくないと考える。
  • すべて間違っていると考える。


このような考え方は、「すべてか無か(白か黒か)」の機能を働かせている典型的な状態です。


「すべてか無か」の機能はそれだけに留まらずコントロールの問題に発展します。

コントロールしているか、していないか?の2極化した状態で機能しているか、していないかを判断します。

本人が認識した結果、思いのままの状態が維持できていれば続け、そうでない場合には全く無関係に過ごすかのどちらか一方なのです。

「すべてか無か」はコントロールと1セットなのです。


「すべてか無か(白か黒か)」で判断する彼らの特長は、コントロールを失わないように自らに注意を与え続けるか、そうでない場合は無関係を決め込むことです。無関係に過ごすのは、傷つくことを恐れる結果なのです。

「すべてか無か(白か黒か)」も、コントロールしているか?していないか?そのどちらも柔軟性に欠け、現実的ではありません。


コントロールの問題は、「すべてか無か(白か黒か)」の問題が感情的に行動化したものです。思い通りにならない場合はコントロールで相手の自由を抑えこもうとするわけですから、状況によっては簡単に暴力に走ります。つまり破壊、破滅が隣り合わせに並んでいるのです。


どのようにして、このような仕組みを身に着けたのでしょうか?

健全に機能している家族のもとでは、「すべてか無か(白か黒か)」ではなく、時にあり、時にない。白でも黒でもないグレーである中間的な場合が多く、思い通りにならない状態を我慢ではなく自然な形で柔軟に受け入れます。


思い通りにならないからといって暴力に訴えることは理不尽であり、あり得ないのです。

コントロールを失わないように注意深くなるのは、アルコール依存症者のいる家族に育った場合に多く見受けられる現象です。

子供時代にコントロールを手離すと自分が精神的、あるいは身体的、もしくはその両方が傷つく場合が多いからです。

たとえば、好意を持っている異性とはじめてデートした日に、相手が気持ちを表明することを期待したものの、特に何もなかったというのは失望することではありません。相手には相手の考え、ペースがあるからです。


しかし、白か黒かで判断する傾向が強いと、明確な回答となることを望みすぎてしまいます。強すぎる希望は落胆に走る危険があります。一旦落胆すると今度は、否定感を持った状態で相手の考えを確かめようとします。怒りが含まれた状態なので、ラケットを使います。もうこれ以上傷つきたくない防御が働いているので、自分の気持ちや考えを話さないようにして試します。

相手には何が起こったのか分りません。この段階ですでに関係性は破綻に近い状態にあります。


(1)デートの最初に日に、「相手の気持ちを確認したい。」「自分のことは包み隠さずを全部話す」というのは、相手に対する心配りに欠ける行為で乱暴です。なぜなら相手には相手の心の準備があるからです。お互いに、一歩一歩、確かめながら進退を決めていけばいいことなのです。

(2)相手が言わないからといって不信に思い、次回からは何も言わないようにする、というのは感情的な行動であり、コントロールに走っている状態です。コントロールされる立場は楽しいものではないので、続くと関係は破綻します。


(1)(2)を通じて「すべてか無か(白か黒か)」の態度が一貫していることにお気づきでしょうか?
自分でも気づかない隠された目的に注意が必要です。たとえば破綻し、見捨てられたと感じることが目的になっている場合もあります。


「すべてか無か(白か黒か)」の延長にコントロールがありますが、コントロールを放棄し、他者と分かち合うとどうなるかを見極めるのは難しいので、コントロールを手放しても安全と感じとるまで、コントロールを放棄しないので、「すべてか無か(白か黒か)」の問題を最初に理解することが先決です。


対策は、弱い自尊心を強くすることにあります。自尊心は心の柱のようなもので、まず自尊心を築く作業を続けていくことが望ましいのです。

そのプロセスでは感情が不安定になることも、傷つくこともあるでしょうが、そこで中止することなく、自尊心を築くのです。つまり自尊心が弱いので、「すべてか無か(白か黒か)」や、コントロールで自分を守っているのです。


どうして自尊心が弱いのでしょうか?
機能しない家族で育つと、機能していない人が家族の一番弱い人に対して攻撃してきます。攻撃するには理由が必要なので、理由をあげます。
たとえば「お前のせいでこうなった」という言い回しは負い目を感じさせるのに十分で、我慢を強要します。こうして強要する人と自らがひとつになって自分を攻撃する仕組みが日常化します。この仕組みは自尊心をボロボロにするのに十分です。


どのようにすれば自尊心を築けるのでしょうか?
コントロールを企てる裏には、責任範囲の混乱があります。人には自分が出来ることと出来ないことがあります。その見極めをすることです。

酔っ払いが酒を飲むのは、その本人が決めることで、当事者以外にコントロールできません。天候をコントロールできないのと同じです。

できること、できないことには明確な「境界」があります。この境界を繰り返し意識することが克服のポイントになります。


好きな人がいてその人が誰を愛するかは、あなたの問題ではなくその人の問題なのです。あなたを選ばないからといってあなたの責任ではないのです。もちろんあなたには人として魅力を高める機会も権利もあります。しかしそれでも選ぶ権利は相手にあり、あなたにはありません。つまり選ばれなかった責任はあなたにはないのです。この関係性に自尊心が入り込む余地はないし、自尊心を云々するのはバカバカしいほど見当違いです。


このように「境界」を認識して「その問題の主体は誰にあるのか」を考えると、本当の責任者が見えてきます。もともと自分の及ばない問題を繰り返し自分の落度のように感じさせられたことが、自尊心を叩き折る原因になったのです。


それが分れば問題解決は簡単なはずですが、分っても修復が困難なのは、知識が理屈ではなく五感を通して感情として入り込んでいるからです。

だから「頭では分っているけど実行できない」という現象が起こってきます。

克服どころか、我慢のない関係に「情熱」「リアルティ」を感じなくなり、同じニュアンスを持った人物との関係に親和性すら感じてしまうのです。そうでない相手と向かい合ったときには、自分が再現者になり相手を傷つけることも珍しくありません。


このような間違った方向に行かないように、意識することを使い、感情的な行動に暴走しないようにするのです。




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2015年5月23日土曜日

負の伝播



 



虐待は誰にも起こることではありませんが、起こった場合、間違いなく、受けた側の人の心に特別な文化とルールを創ります。

それは長い期間、その人を支配し苦めます。どこかで断ち切って、その特異な文化とルールを断ち切らないと、世代をえて何代にも亘って伝播することは珍しくありません。


 いま今日の段階で、なんとなく生き辛さを感じる人は、間違った文化とルールの影響を受けていないか、用心深く自分を観察するのは悪いことではありません。

アルコール依存症者の子どものなかには、直接、親から酷い目に合っていても、「そんな記憶はない」と断言する人もいるので、間接的に受けている場合には認識できなくても不思議でありません。

さらに自分自身は親から愛された記憶しかなくても、親の中に間違った文化とルールが植えつけられていた場合には伝播してもおかしくありません。


 間違った文化とルールが意識的、あるいは無意識に五感を通じて入り込んだ場合には、自分では意識できない人生脚本に支配されることは珍しくないのです。そして価値観以前の存在のあり方として、自分の文化として自身全般に影響します。

克服は自他尊重を大事にすることです。他者が自分を傷つけることを許さない。逆に自分も同じです。自分のケアは自分でする、自分のことは自分が引き受ける。

つまり主体性を持つことから始まります。他者と比較する必要はありません。自分の素晴らしさを自覚しましょう。



「私にはそんな価値はありません」「私は取るに足らないつまらない人間だ」と思う人がいるかも知れませんが、人は誰でも、人を笑顔にすることができます。人はみんな祝福された素晴らしい存在なのです。


他者と比較する必要などありません。

私たちは物心がついたころから試験の点数で順位づけされてきたので、どうしても劣等感を覚えがちです。

しかし誰にでも、大切な誰かに喜んでもらった経験はあるはずです。それこそがじぶん再生のヒントであり、自分の価値を創造する原点です。学歴や試験の点数など関係なく人は素晴らしい存在なのです。


しかし、もったいないことですが、なんらかの事情で自分の素晴らしさを認識できず、心が折れている人もいます。

しかも昔から日本では謙遜が美徳とされているので、自分を素晴らしい存在だと認めることに抵抗のある人も少なくありませんが、自分を卑下し自分をつまらない人間だと思うことと、謙虚さは全く異なります。自分を素晴らしい存在だと信じられるから、なにごとにも謙虚に感謝できるようになり、逆に素晴らしい存在だと信じていない人ほど、謙虚になれないのが実際です。


 まず自分を信じてみましょう。
これは負の伝播を受けた人にお伝えすることですが、自分自身の面倒をみるという考え方が、虐待を受けた子供たちの新しい行動の一部になると、質的な変化が起こります。例えば、以前は罪の意識に押しつぶされてできなかったことが自分で責任を引き受けてできるようになります。主体性を持って遊んだり楽しんだりできるようになります。


自分と他者との問、特に親との聞に適切な境界線を引き始めると、限界を設定できるようになります。もうひどい扱いは許せなくなるし、他者の思慮のない行動も受け入れられなくなる。

その一方で適切に人を信頼できるし、感情を解放するようになる。

この信頼と適切な対応を伸ばすと約束が出来るようになり、信頼関係が築けるようになります。それは平穏と回復につながります。




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